にじゅうごさいになりました

今週のお題「私のテーマソング」

列についてゆけない者に また来る春が
あるかどうかは誰も知らない
ただひたすらの風任せ

 十月生まれの私が世に蔓延する夥しいの歌どもの中で最もシンパシーを感じる歌が、井上陽水「神無月にかこまれて」です。
 もう、それはそれは、文節ひとつひとつに様々な思い入れがあります。私は初期の井上陽水に共感しようとしすぎるところがあって、たといノーベル賞でももらうつもりで頑張ってるんじゃないのかと世の中をひがみ続けたところで井上陽水にはなれないことをそろそろ自覚した方がいいと思います。と23歳になるにあたって書いていたのですが、まったく状況が変わっておりません。

 そういうわけで先週で25歳になりました。25回もやってりゃ誕生日も忘れるってなもんで、マジで全然自覚がなくて20代前半最後の貴重な夜を一人で飲みにいった渋谷のバーでチンコの命じるままに生きてるタイプのおっさんが「一番フェラが上手かったのは京大卒官僚女子」「遅漏なのに即イカされた」「○○(吉原で有名な「仕事」がデキる熟女)より断然上手かった」「あれは枕営業で仕込まれたに違いない」とか言ってるの聞いてたら終わってました。死にたーーーーーーーーーーーーーーーいでーーーーーーーーーーす。

 ありとあらゆる思春期のわずらいをこじらせにこじらせて生きてきた私としては、27歳(カートコバーン)くらいで死なないといけないんですけど、どうなることやら先が思いやられますね。まァ80くらいまで生きてると思います。
 しかしまさか、25にもなってまだ「みんな死んじゃえ」とか思ってるとは、思わなかったよね。

神無月に僕はかこまれて
口笛吹く それはこだまする

中国人のS藤が金魚にえさをあげて学校に来なくなったこと

 もっと思い出の話とか書いてって言われたので思い出の話をします。

 小学校のクラスメートにS藤というのがいた。彼は中国人だった。今にして思えば円を描いた顔の輪郭や色の白さはあきらかに大陸のそれであり、表情にも中国人らしいものがあったような気がするのだが、日本に生まれ育った彼を小学生たちが中国人だと気付くことはなかっただろうと思う。彼が疎ましがられていたのは彼が中国人だからではなく、彼のどん臭さやわがままそうに突き出した下唇、伊勢丹の地下で売ってる「おまん」みたいな外見の為であっただろう。

 私は当時中国人のBちゃん(彼女は中国名だった)がほとんど唯一の友達で、彼女の話からS藤が彼女の同胞であるということはなんとなく気付いていた。だがその時は中国という国に対するイメージもさほど強くなく、それを意識することはあまりなかった。
 S藤が中国人だということを初めて意識したのは彼の母親が呼び出されたところに居合わせた時が最初であった。教室のベランダでひまわりを栽培する課題が出ており、S藤にはそれをこなそうという意志が見られなかったようだ。そのことを中心に日ごろの学習態度を注意すべく母親が呼び出されていたようで、そしてどういう経緯でなのかひまわりの鉢をS藤の母がほじくっているところに出くわしたのである。
 そのときの担任が彼女にそれを指示したとは思えない。いま考えてみると、S藤の母が担任教諭の指摘(家庭での生活習慣も見直して下さいといったような)の意図を理解できず、じゃあ私がやればいいんでしょう!と的外れの怒り方をしてやっていたのではないだろうか?
 もう日が落ちて暗くなったベランダで、S藤の母は鉢植えに覆いかぶさるようにしゃがみこみ、なぜか鍵で土を穿っていた。学習教材らしい、ドラえもんみたいに真っ青なプラスチックの鉢植えだった。教室の明かりを反射して鍵がちらちらきらめいていた。S藤の母は、ぽっちゃりしたS藤とは似ても似つかぬ痩せぎすの女性だった。それで私は、そうかS藤は中国人なのだなと思ったのだった。

 S藤は単に少々鬱陶しがられていただけだったのだが、同級生たちが成長し意識がはっきりしてくるにつれて積極的な攻撃を受けるようになった。S藤はよく直接に悪口を言われ、おまんみたいな白い顔を真っ赤にして泣いていた。その時すでに4年生であったから、悪口とはいえ言語によってコミュニケーションを図る同級生たちよりも、理不尽を言語化できずに泣いてしまうS藤が確かに幼稚だったのだ。幼稚さに対して子供のコミュニティは厳しい。男子たちのグループからはじかれたS藤は、いつも一人で行動している私に話しかけるようになった。S藤が嫌だからでもいじめの波及を恐れたのでもなく、単に誰とも話したくないがために私はそれを避けていたのだが、放課後水槽で魚に餌をやっているS藤に以下のようなコメントをした。
「S藤はリアクションを取るからいじめられるのである。とはいえやはり悪口を言われて気にしないことが無理だというのには共感する」
 それを担任だった30代なかばの熱血型の女性教師が見ており、彼女は私たちを仲良くさせようとした。なんて単純な脳みその足りない、善良なM月先生!クラスの多数派に属する人たちというのは、少数派に属する人間を勝手につがわせて、からかって楽しむことがある。まったくそれと同じことを彼女は善意からやってのけようとしたのである。それがきっかけで私はS藤との接触を絶つようになった。

 翌年はS藤とクラスが分かれた。秋口のある日、下校時間を過ぎて、私は隣のクラスの教室に忘れ物を取りに行った。もう外は夜で、強い月明かりと水槽のライトだけが教室を明るくしていた。そこにS藤がいて、水槽の金魚に餌をあげていた。S藤は色が白かったから、光源の乏しい教室の中で妙に目立った。

 それっきりS藤は学校に来なくなった。何度か誰かがオタヨリを届けに行っていたようだ。彼がどうなったのか、私はもう知らない。

えにっき10/6

きょう歌舞伎町で見たけんかの詳細です。
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タトゥーのヤンチャっぽいにーちゃんがギャルにビンタし、突っ立っているおじさん二人に喚きながら殴りかかろうとしていました。
ギャル、顔真っ赤にして泣いててかわいかったです。

※「うち」というのは一人称のウチではなく、彼が所属している組織を指していると思われます。

昔の犬はでかい

 平日の昼日中、上野公園へ向かう日比谷線の中で、自分がもう未来に生きていることにはたと気付いた。
 上野の博物館に忠犬ハチ公の剥製がある。ハチ公はでかい。昔の犬はでかいのである。私が小さい頃はまだ横浜にも野良犬がいて、やはりでかかった。私は高級住宅地に住んでいるのでよく大型犬を見るのだが、しかしでかい犬は見なくなった。私が最後に見たでかい犬は、死んだ外祖母の家を奪った叔母が飼っていた犬だ。どうやらゴールデンレトリバーの混ざった雑種で、まだ子犬と呼ぶべき年なのにもう十二分にでかかった。手入れをする外祖母が追い出されたのでぼうぼうに荒れ果てた小さな庭で、だれかが彼を見つけてくれるのをいつも待っていた。どこか間延びしたような体つきの彼がどこに行ったのか私はもう知らない。

 私にとっての未来とはちょうど今頃、学校を卒業して働き始める頃だった。受験勉強をする気のない高校生というのは至極ヒマなもので、当時の私は余計なことをたくさん考えていた。将来の計画もたくさんした。それくらいの子供に想像できる未来など大学を出るまでくらいのものだから、私にとっての「未来」は今なのである。
 その計画は大抵、私はこういうところがダメだからこのように不幸になるだろうという計画であった。そして割かしその通りの未来に来てしまっている、そのことに気付いたのである。
 私はいつも自分が成功することが想像できなかった。だから受験勉強もろくすっぽしなかったし、努力を怠ってきた。やってもできないと思っていたから。努力を怠って想像通りの結果になって、また自分が成功しないという確信が裏づけされていくわけなのである。
 私がしてきた想像はいつも「できない」だった。それはどうしてだったのだろう。別に褒められたことがないわけではない。なんでもそれなりにこなして来たし、得意なこともあった。確かに友達はいなかったけれども、声がでかいから合唱では重宝されていた。

 でかい犬は過去のものだ。だから未来には叔母の犬を連れてこれなかった。昔の犬がでかかったのは、彼らの来し方行く末をだれも気にしなかったからだろう。犬は犬で勝手に生きていたから。でももうでかい犬はいない。犬たちも幸せにならねばならなくなった。その場限りの愛撫で生きてきたでかい犬はもういない。

 ところで私はどうして幸せになってはならないと思ってきたのだろう。何の悪事を働いたわけでもないのに人生を懲罰のように考えているのはなぜ。何の根拠もなく誰かが私を愛することはないと確信しているのはなぜ。
 私は金に困ったこともなければ痛い思いもしてこなかった。自分の力で好きな服を着て好きなものを食べて好きなときに寝る。たぶんこれからもそうする。でも、幸せにはならないだろう。私が思うような成功を見ることはないだろう。それは、私がそのように確信しているからだ。今の犬は、大型犬中型犬小型犬に分類できる。でかい犬は、もういないのだ。

ラブライブの映画がものすごくつまらなくて私の青春は終わったと思った

 私は舞台芸術におけるあの「腹から声を出している感じ」がどうも受け入れられない。だから演劇に苦手意識がある。
 私が実際に見たことのある演劇は二つだけで、三谷幸喜の「桜の園」とケラリーノ・サンドロヴィッチの「三人姉妹」だ(要するにチェーホフが大好きなんですね)。
 三谷幸喜はコメディだから別に大声出してても変じゃないんだけど、ケラリーノのほうは「あー……なんか……演劇だな……」みたいな感じでかなり引いてしまい楽しめなかった。まあ一緒に見に行ったケラリーノファンの友人に「これのどのへんがケラリーノっぽいの?」と聞いたら「ウーン……」みたいな感じだったのであれはケラリーノ作品としてイマイチだったんじゃないかと思うんですが。
 「なんで急に歌いだすのかわからない」とタモリがミュージカルに関して言っているのは有名だが、私はその点にはそれほど違和感がない。だってそういうもんじゃん、あれは。あれはアトラクションなんですよ。だから三谷幸喜作品で登場人物の声の張り方がおかしくても「まああれはそういうアトラクションだから」で受け入れられるし、昔ロシア文学の授業で見た超意味わかんないシュール以外に表現のしようがないロシアの劇団の「ゴロブリョフ家の人々」も「まあそういうもんかな」で受け入れたし(ゴロブリョフ家の人々という小説は死ぬほど暗いんですよね、ホントあれ以上に陰惨な本は存在しないと思います、夢野久作なんか目じゃありません、日本みたいな島国ではあんな暗い本は書けないんだと思います、所詮日本なんて気候もよくて暮らしやすい島ですよ)、舞台じゃなくなっちゃうけどヒッチコックの映画っていうのは形式とか伏線とかを重視するあまりに登場人物が明らかに不自然な動きをしたりするんですけどまあヒッチコックってそうじゃん、で楽しめる。でもふつうの演劇だと腹から声出してる感じに引いてしまう。つまり私は演劇というものが何を目指しているのか?どう楽しめばいいのか?がよくわからなくて楽しめないわけなのだ。

 ところで先日あまりにも暇すぎてラブライブの映画を見た。新宿スワンでも見るかと思ったんだが満席だったのである。海街ダイアリーみたいなああいう中間色の、水色な感じの、カメラ女子みたいなアレは受け入れられないので……私のような心根の腐り落ちている人間にはあの水色感は耐え切れないので……まだラブライブのほうがマシかと思ったのだ。アニメは嫌いではないので。
 結論から言うとクソつまらなかった。
 わざわざニューヨークに行っておいてほとんど何もせずに帰って来たあたりでもうムリと思って観るのをやめたのでその後むちゃくちゃ面白くなっている可能性もあるが、もうほんとクソつまんなかった。でも思うに、それって演劇が苦手なのと同じで楽しみ方がわかっていないのだ。結局ああいう作品というのは「キャラクター」を愛すべきものなのであって、ストーリーは問題ではないのだ。大好きなキャラクターがニューヨークに行った、という設定を与えられて、いかに自分の中で楽しめるか?それが萌え系アニメの楽しみ方なのである。だから二次創作がこうも盛んなのだ。そういえば昔は私もそういう楽しみ方をしていた。
 そしてそれは本来、幼少期や青年期の楽しみ方なのではないだろうか。好きな人との未来を妄想したり、自分がヒーローになることを想像したり……そういう楽しみ方に近い。(別にそれを続けるオタク文化が幼稚だって言いたいわけじゃなくてね)

 思えばいつのまにか読む漫画はストーリーに重きを置いた絵がゴツい漫画ばかりになった。もやしもんへうげもののようなトリビア的要素を取り入れた漫画をありがたがるようになってしまった。キャラクターを愛し慈しむ心をいつの間にか私は失っていたのだ。青春は、終わった。


 ありがとうラブライブ。ありがとうジュブナイル。そしてさようなら。

TVタックルひろゆき出演に思う/匿名性こそがいじめられっこの救済だった

 日本において世界は一つになりつつある。
 すべての発言はいずれ本名に紐付けられ、虚空に言葉を投げかけて木霊を聞くような旧いインターネット、あのすばらしくも混沌としたなつかしい未来はなくなってしまう。
 世界は一つになっていくしかないことに気づいて、私は先生にはなれないと思ったのだった。

 TVタックルネット規制派と話させるためにひろゆきホリエモンが呼ばれた。
 あの場においてネット規制派の言っていたことは、昔テレビを非難した大人たちが松本人志に「親が真似するなって言えばいいだろう」と言われていたのと同じことである。要するに、理解できない若者が増える→わかりやすい何かを仮想敵にする→それを攻撃する、いつもの大人の遣り口だ。なんかその大人の遣り口にロングヘアでネトウヨの若者寄りの人間が加担してるのがいかにも2010年代ですが。
 被害者遺族のことを考えろといったその口で感情論は話していないと言う政治家が政治家をやっていることにも戦慄するが、いじめの対策のためにネットの匿名性をなくすという論調は、あまりにも何事に対してもなんにも知らない言い様である。
 加害者にいじめを辞めさせることは、加害者への救済であって被害者への救済ではない。加害者が犯罪者になるのを防ぐというだけだ。いじめはなくなりっこないのだから、それよりも被害者への救済を急ぐべきなのである。そしてインターネットの利用を規制する=いじめの手段を規制することは、加害者の救済に過ぎない。
 本来、インターネットはいじめられっこの棲みかだったはずだ。そこでは私が冴えないデブスだなんてことは誰も知らなかった。ちょっと上手い絵を描ければ、面白いことが言えれば、褒めてくれる人たちがたくさんいた。私は小学校のとき転校生のK保さんと中国人のBちゃんしか話す相手がいなかったが、インターネットでは人気者だった。その中であれこれ作ったりイベントに出展したりしたことが、それなりに社会性を持った生き物として成長できた理由だったと思う。
 
 世界は一つじゃないということ。学校だけが世界のすべてじゃないということ。それがいじめられっこへの唯一の救済だったはずなのだ。

 いじめられたんなら学校なんか辞めちゃえばいい。義務教育は出席していなくても卒業できるし、進学の方法はいくらでもある。私は高校の成績は最悪だったが、同級生たちの中ではマシなほうの大学に進学した。あなたが努力して、あなたに合うコミュニティを見つけられれば、あなたがいじめられていたなんて思う人はいない。ちょっとした武勇伝にして笑い飛ばすことだってできる。
 でもいつかすべての発言に責任を持たなくてはならなくなったら?どこにいっても、いじめられっこがいじめられっこであった事実が付き纏う。「いじめられた」というのは烙印のようなもので、同じ世界の中ではどこにいってもいじめられっこはいじめられる。だから世界を複数持つことが、いじめられっこの烙印を薄める唯一の手段だった。
 そして簡単に自分の経歴をリセットできる、匿名性のコミュニティこそがその手段として有用だったはずなのだ。

 大人になるということは、多面性を持つことだと最近思う。会社での自分、家庭での自分、友達のなかでの自分。その多面的な世界をきちんと構成し実績を持つことによって自分に自信を持ち、評価されない不安感から逃れ、「本当の自分」探しからリタイアすることが大人になることだと思う。まあ私はまだ本当の自分を探してるんですけども。
 だから逃げることは大人になる一つの手段だ。
 

 このまんがが結構よかった。
 大人はいつも世界が一つであるかのように振舞う。それが間違いなわけではなくて、どこにいっても努力は必要だからそういうふうに教えるべきなのかもしれない。でも必要なときに必要な逃げを打つこと。それを教えられる人であることを私は優先したくて、先生になりたいと思っていたことがあった。
 しかしもう世界は一つになっていくしか道がないのではないだろうか。そんで戦争にでもなるんじゃないでしょーか。はーあ。

 あ・でも資本主義社会が成熟して共産主義になるなら、
 資本主義への傾倒→価値観が統一される(資本のみを評価するようになる、日常的に言えば経済的成功・リア充化のみが評価される)=私が言っているところの「世界が一つになる」→共産主義ってことか!?まあいいやお茶漬けでも食べよ……

「惜しみなく愛は奪う」ってどこのエロゲーだっけ

 と思ったら有島武郎だった。
 というわけで有島武郎によるエロゲメーカーがあったらという妄想を書きます。

『惜しみなく愛は奪う』
・メーカーの出世作。代表有島武郎が同タイトルのプロトタイプを夏コミで出していたのがメーカー立ち上げのきっかけ。
・30代熟女と不倫することが主眼だが、夫視点を選択しNTR作品としてプレイすることも可能。
・寝取った女を元旦那に寝取り返されるなど、画期的なNTRシナリオで話題に。
・あるヒロインのルートの夫視点は、寝取られた妻が更に高校生男子にハマり、その仲間のDQNとなんやかやあって新聞でそれを知るという鬱エンド。有名事件をパロディにした内容によって批判されたがそれがきっかけでブレイクとなった。
原画は佐野俊英さん的なイメージ

カインの末裔
・処女作がこれ。処女作らしくかなり力の入ったマニアックな内容。
・ボンテージ、ラバー、緊縛、お屋敷で監禁などハードでオーセンティックなSM。肉体改造有
・メインヒロインは20代後半〜30代。
・オペレーター役で登場するロリメイド(エロシーンなし)に人気が集まり、メーカーのマスコットキャラになった。
原画は聖少女さん的なイメージ

生れ出づる悩み
・同メーカー初のヒロインがアラサーでない作品。深夜アニメになったこの作品をきっかけに、ヒロインの年齢層が下がり作風もかなりマイルドになった。
養護教諭視点で高校生男女のイカれた恋を描く。カップルに割り込んで男女まとめていただいちゃう感じ。保健室プレイが多い。売春、ビッチ、レイプ、ヤリチンなど性的に逸脱しているキャラクターがピュアな恋をするみたいな。感じ。(飽きてきた)
・惜しみなく〜の鬱エンドに登場する高校生男子が登場し、リンクするエピソードがある。


 熟女やSM、調教、レイプなどが得意だったブランドが学園もののヒットをきっかけにメジャーな傾向に…みたいな。絵的にも生まれ出づる…以降は目がすごい縦長の半円みたいなタイプの萌え絵になっていくんだと思います。
 私有島武郎はほとんどまともに読んだことありませんが、ほんとは志賀直哉とかと同じ白樺派の純文学作家です。タイトルが中二臭くてエロゲっぽいんですよね、カインの末裔とかほんとに…なんかゼロ年代前半のライトノベル的と言いますか。タイトルがね。

 もうちょっとエロゲあるあるみたいなの仕込めたらよかったですね。勉強不足。
 どーでもいいけど有島武郎の弟がうちの親父が勤めてた会社の取締役だったそうでびっくりしました。