ないものねだりの物語...「かぐや姫の物語」「レベッカ」

角川シネマ有楽町 2014.3.13

高畑勲 「かぐや姫の物語

 

午前0時の映画祭 http://0eiga.com/ 2014.3.22

アルフレッド・ヒッチコック 「レベッカ」  

 

 最近、楢山節考を再読した。

 楢山節考は姥捨て山の話だ。しきたりに従って真冬の楢山に捨てられることになる老いた母親のおりんは、自らの健康を拒み、年寄りらしい姿で捨てられることを望んでいる。正しく捨てられることは、彼女にとっては不幸ではなく、誇るべき、この上ない自己実現なのだ。  何が幸せかは人それぞれだ。おりんの前で姥捨てを否定してはいけないと思う。おりんにとって、長寿や健康は幸せではなく、それはプライドを傷付けることなのだ。そういうふうに育ってきたのだから。私たちがおりんに対して考える不幸、残酷も、私たちがそういうふうに育ってきたからということ以外に根拠はない。

 そして、かぐや姫の物語も、里山的な生活が自然で人間らしくてイイですよね、という単純な話ではない、というか、そうでないといいな、と思う。

 姫の教育係である相模は姫の考える幸福を否定する、頑迷な人物のようにも見える。でも相模にとっては、やっぱり高貴の姫君らしくして、顔もわからなくてもお金持ちの貴族にもらわれることが幸せだし、たぶんそういう姫君を育て上げることが相模にとっての幸せで自己実現なのだ。だから、姫君に与えたかった幸せを姫君が否定したときに、相模は去ってしまう。それを否定することはできない。

 で、誰が一番幸せそうかっていうと、翁と媼なんだよね。翁の空回りに、媼は自分のペースを乱さずに従っていく、理想的な夫婦だ。実はパートナー選びが重要なんだってことなのではないだろうか。 捨丸は、姫がよしとする自分の里山の暮らしを否定し、都でゆたかな暮らしをする姫が幸せだと思っている。そして、パートナーや子供を捨てて、姫との暮らしに逃げようとする。みんなみんな、いまの暮らしがイヤなのだ。でも翁と媼だけは、山でも都でも変わらない。

 古文の世界の人は、愛や恋を「情け」と表現する。姫が口にする「情け」は感情というニュアンスだろう。それは、なにかをほしがる欲情なのだ。

 姫に月で地球のことを教えたという人物が出てくる。羽衣伝説の天女だ。羽衣伝説は手塚治虫も『火の鳥』の中で未来人として描いている。天女が水浴びしてて、岸の松にひっかけてあった羽衣を男がとってしまう。んでそれを返してあげないでそのまま嫁さんにしちゃうの。羽衣伝説はいっぱい類話があるのでものによるんだけど、大体の話では子供までもうけたのに男が必死で隠す羽衣を見つけ出して月の世界に帰っちゃう。でも『かぐや姫の物語』の天女は男を、地球を恋しがる。それって、情けなんだ。好きとか嫌いとかを超えて、馴れた体に対する情けだ。

 そして、姫のパートナーはどうやら仏様のようだ。

 月世界は仏教的である。仏教のしあわせは(しあわせとは呼ばないが)、感情を捨てちゃうことにある。そもそも、現世っていうのは、いまの私たちには想像できないくらいつらい物だったんだろう。だから仏教では欲を持つことが罪とされた。

 愛や恋ではなく、「情け」という言葉であることに、この映画のミソは詰まっているのだろう。

 

 いっぽう「レベッカ」に登場する「ないもの」は、いたいけで不幸な女の一瞬と、もうこの世にいないレベッカだ。

 レベッカは基本的にひねりのきいたシンデレラストーリーである。超お金持ちのマキシムに、ちょいと不幸な境遇にある「わたし」が旅先で出会い、電撃婚。んで、マキシムの屋敷に行くんだけど、そこでいろいろいじめられてしまう。その原因が、マキシムの死んだ前妻「レベッカ」とレベッカを慕う使用人のダンヴァース夫人、そして、マキシムの自分がレベッカを死なせたという思い込みだ。

 旅先のホテルでのプロポーズのあと、朝食の席に着いたマキシムは「わたし」に「そのままの君でいい」と告げ、砂糖の数を教える。簡素で電撃的なプロポーズ、道端での花束のプレゼント。ロマンチックで少女マンガ的な展開だが、マキシムは「喧嘩したらこの日のことを思い出そう」とプロポーズの際に述べ、「そのままでいい」と繰り返す。シンデレラを迎えに着てあげたこの日を思い出そう。彼が欲しかったのは、後添えに相応しい、控えめで不幸な、自分をありがたがってくれる若い女だったのかもしれない。

 圧倒的な悪役ダンヴァ—スのいびりに鍛え上げられる中で、レベッカの亡霊を振り払い問題解決能力と少々の貫禄のついた「わたし」に、マキシムは「今の君には私の好きだったあのあどけなさがない」と言う。

 私はヒッチコックが好きだが、一番最初に見たレベッカが一番好きだ。うつくしいモノクロの絵、非現実的なセット、圧倒的な存在感を放つダンヴァ—ス夫人、そしてヒッチコックのヒロインたるに相応しい、困らせられっぷりが見応えたっぷりのいたいけなヒロイン。

 この映画を見たのは銀座のみゆき座だった。午前10時の映画祭というTOHOシネマズの企画で、週替わりで名画がかかっていたのだ。特別な約束もせず、大学のかわいい友人と銀座をあるいて、映画を見、ちょいとばかし飲んで帰路につく。大学生らしい時間の使い方だったと思う。わたしがねだっているないものは、そういう時間だ。  

 もうないものであるレベッカに振り回されて、ふたりは変わってしまった。その呪縛から解かれて、マキシムがこれ以上いたいけな「わたし」に期待せず、うまくやっていってほしいなァと、本当にそう思う。