じゃりン子チエと「明日、ママがいない」

 「明日、ママがいない」というドラマにおいて、主人公が赤ちゃんポスト出身であることを意味する「ポスト」というあだ名にいちゃもんがついて話題になった。(観ていないので合ってるかどうかわかりませんが)これは主人公自身が自嘲をこめて自称したあだ名であって、ポスト自体を揶揄するものではないし、第一、たとえ赤ちゃんポストが社会的に必要なものであったとしても、そこに投函された子供が「ポスト」であることには何ら変わりはない(実在する同様の機関がどんなに手厚く保護したとしても)。でも、そうしたことから逃げるしかないのが今の世の中なのだろう。

 じゃりン子チエというアニメがあった。このアニメは「三丁目の夕日」と同時代に、三丁目の夕日と同じく下町人情モノとして受容された作品である。複数回のアニメ化、二足歩行の猫などの商品展開しやすいキャラクターの存在は、三丁目の夕日よりも人気を博したことを想像させる。しかし今、三丁目の夕日が再度脚光を浴びる一方てチエちゃんを思い出す向きはない。平成生まれにとってはほとんど知られていない作品でさえある。
 下町人情モノとはいっても、チエちゃんのそもそもの舞台は釜ヶ崎やあいりん地区、一般的な下町とはとうてい呼べない地域であった。チエちゃんの父親テツは何かというと暴力に訴える博打狂いで働かないし、母親はそんな父親に抵抗できずに家出している。チエちゃんは博徒の父親に代わり、自ら飲み屋を切り盛りして家を経済的に支える。母親たちを「女ども」という仮想敵に見立ててチエちゃんと自分の共依存の関係に持ち込もうとするテツの姿は家庭崩壊の典型的な姿でさえあるのだ。しかしチエちゃんは、子供の世界を逸脱してやくざたちと付き合いながら、時に自らを客観視し、大人よりも大人らしく彼らを宥めている。チエちゃんは家庭を逸脱することで自立した広い視野を得ているのである。
 釜ヶ崎出身の著者が懐かしんだ釜ヶ崎は、実際に皿洗いで生活を立てる小学生もいれば両親がいない子供もザラで、子供の世界、大人の世界、家庭の枠組みから逸脱した一個の共同体だった。そうした夢の世界(筆者は通天閣を描かず、意図的に作品の舞台を暈している)、懐かしい釜ヶ崎パラレルワールドにチエちゃんたちは生きているのだ。
 三丁目の夕日で描かれた「昭和」も、現実よりもずっと昭和らしい昭和であり、それはチエちゃんの釜ヶ崎と同じくパラレルであるかもしれない。でもそれは過去であり、二度と戻らない、懐かしんでさえいればいい世界だ。しかし、チエちゃんが生きる状況は、確実に虐待であり、崩壊なのである。チエちゃんが好まれた時代、日本において児童虐待は発見されていなかった(もちろん起きていたのだが)。児童虐待が顕在化した今となっては、チエちゃんの世界は懐かしい昭和である以上に失われた地域のセーフティネットで家庭崩壊が包容される世界であり、今解決しなければならない問題を孕んだ世界なのだ。
 だから今、チエちゃんの世界は見るに耐えないのかもしれない。明日、ママがいないにおける「ポスト」と同様、「ウチは日本一不幸な少女や」と自らをデフォルメしてみせるチエちゃんの強さに、私たちは今向き合えないのだ。