昔の犬はでかい

 平日の昼日中、上野公園へ向かう日比谷線の中で、自分がもう未来に生きていることにはたと気付いた。
 上野の博物館に忠犬ハチ公の剥製がある。ハチ公はでかい。昔の犬はでかいのである。私が小さい頃はまだ横浜にも野良犬がいて、やはりでかかった。私は高級住宅地に住んでいるのでよく大型犬を見るのだが、しかしでかい犬は見なくなった。私が最後に見たでかい犬は、死んだ外祖母の家を奪った叔母が飼っていた犬だ。どうやらゴールデンレトリバーの混ざった雑種で、まだ子犬と呼ぶべき年なのにもう十二分にでかかった。手入れをする外祖母が追い出されたのでぼうぼうに荒れ果てた小さな庭で、だれかが彼を見つけてくれるのをいつも待っていた。どこか間延びしたような体つきの彼がどこに行ったのか私はもう知らない。

 私にとっての未来とはちょうど今頃、学校を卒業して働き始める頃だった。受験勉強をする気のない高校生というのは至極ヒマなもので、当時の私は余計なことをたくさん考えていた。将来の計画もたくさんした。それくらいの子供に想像できる未来など大学を出るまでくらいのものだから、私にとっての「未来」は今なのである。
 その計画は大抵、私はこういうところがダメだからこのように不幸になるだろうという計画であった。そして割かしその通りの未来に来てしまっている、そのことに気付いたのである。
 私はいつも自分が成功することが想像できなかった。だから受験勉強もろくすっぽしなかったし、努力を怠ってきた。やってもできないと思っていたから。努力を怠って想像通りの結果になって、また自分が成功しないという確信が裏づけされていくわけなのである。
 私がしてきた想像はいつも「できない」だった。それはどうしてだったのだろう。別に褒められたことがないわけではない。なんでもそれなりにこなして来たし、得意なこともあった。確かに友達はいなかったけれども、声がでかいから合唱では重宝されていた。

 でかい犬は過去のものだ。だから未来には叔母の犬を連れてこれなかった。昔の犬がでかかったのは、彼らの来し方行く末をだれも気にしなかったからだろう。犬は犬で勝手に生きていたから。でももうでかい犬はいない。犬たちも幸せにならねばならなくなった。その場限りの愛撫で生きてきたでかい犬はもういない。

 ところで私はどうして幸せになってはならないと思ってきたのだろう。何の悪事を働いたわけでもないのに人生を懲罰のように考えているのはなぜ。何の根拠もなく誰かが私を愛することはないと確信しているのはなぜ。
 私は金に困ったこともなければ痛い思いもしてこなかった。自分の力で好きな服を着て好きなものを食べて好きなときに寝る。たぶんこれからもそうする。でも、幸せにはならないだろう。私が思うような成功を見ることはないだろう。それは、私がそのように確信しているからだ。今の犬は、大型犬中型犬小型犬に分類できる。でかい犬は、もういないのだ。