死ぬという動作も、生きているうちのひとつ

 ごく近しい友人が、こんど死ぬことになった。

 その報告を私は明け方に電話で受けた。夜明けの住宅街は薄グレーのぼんやりした光りを投げかけている。始発前に終わったバイトの帰りで、家の近くでタクシーを降りたところだった。声が筒抜けの木造アパートで明け方から電話などできないので、ずるずる関係のない話を引き延ばす友人にあわせ、私は自分の住む古ぼけたアパートのある区画をぐるぐる歩いてまわった。やっと本題に入ったと思ったらまた話を逸らすことが何度も続き、無理に話題を戻そうとしたら、何へのいらだちなのか投げつけるような雑な説明をした。

「おれなんかわるいことしたかなあ?死ななあかんようなことした?まじめにやってきたやん」

 上滑りのする声でそう言って、彼はいそいで電話を切ってしまった。

 何を言ういとまもなく電話を切られて、私はまだしばらくぐるぐる歩き回っていた。朝が本格的にやってきて、気温が上がってくるのを感じた。まじめにやってこなかった私は、何を言ったらいいんだろう。働き盛りの友人はひとを疑うことも知らないような、野球少年の古漬けみたような人なのだ。わるいことなんか、多分本当にしたこともないんだろう。

 昔はもっとずっと、生きていくことはつらかったのだと思う。現世はほんとうに地獄だったのだと思う。だから来世に望みをかけ、仏の救済を頼ったのだ。神様は頭がふるくてまだ現世を苦界だと思っていて、善良な人から殺して救ったつもりでいるのではないだろうか。

 私達は死ということについて何も知ることができない。死ぬという動作もまた、生きているうちの一つに過ぎない。その動作が済むまでは生きる以外の余地はない。だから彼ももう余命五年ギャグ(ぜんぜん笑えません)をかましてくるようになったし、こうやってすべては日常に帰していくのだなァと思う。

 でもまだ、私は、私が死にたいからとかそういうことではなく、それは純粋に気持ちとして、私が代りに死を含む何かを受けてそれで済むならそうしたいと本当にそう思う。どうしていつも、私の経験だけでなく、いつの時代もいたほうがいい人が死ぬんだろう。それはたぶん、「いいやつから死ぬ」という言説をすることができるのは残されて生きていく人だからなんだけど。

 友人から電話をもらった日のような明け方の帰り道のたびに、タクシーを少し早めに降りてそんなことを考える。そうすると部屋の扉を開けてママゴト臭いじぶんの暮らしの痕跡を見るのがたまらなく億劫になって、また自分の古アパートのある区画のまわりをバターにならんばかりにぐるぐる回っては、気温の上がり方に季節の移り気を感じたり、靴擦れを作ったりしている。