教室の原理

 友だちいないのもいい加減にしろよって感じだが私は国会中継が好きだった。

 耳打ち、ニヤニヤ笑い、太平洋の波うち際みたようなさんざめき、内容のない野次、そしてそれらを黙殺せんとする回答者。あれは、学校の教室と同じだったのではあるまいか。

 過去形なのは単に今家にテレビがないからだ。テレビ見ないアピールに苛立つ人は多いと思うが、私はテレビが大好きで見まくっていたからこそのテレビ見ないアピールなので許して欲しい。今でも「為替と株の値動きです」というNHKアナウンサーの空耳が聞こえるし、おじゃる丸が見とうて見とうて仕方ないのでおじゃる。

 まろが元々テレビ好きなのはそなたにもわかっていただけたと思うが、特に国会中継はもう毎日毎日観ていた。政治には大して興味がなく、CS放送で延々と自然を流しているチャンネルでも多分よかったのだと思う。ただCS放送に加入していなかったのだ。あるいはむしろ、けんかや火事を見物する愉しみに近いものであったかもしれない。

 そう、けんかの見物に近いものだったのだろう。国会で野次が飛び交うことは社会の授業で教わることだ。野次!いかにも旧態依然とした行為ではないか。野次や隣の人との会話、内輪話、内緒話。前に立って話す人間と自分たちの間に壁を挟むような行為は、教室に似通っているのである。野次はパフォーマンスであり、反論機会の与えられぬ側の意見表明であり、議会の流れやリズムを作るものだ。ディスカッションの盛り上がりが重要であることは確かだし、私はもっとアゲアゲ↑↑でやったらいいと思っている。でも登壇者と壁一枚はさみ、集団対個人に持ち込むそのやり様は、教室で行われている教師vs生徒、優等生vsみんなと似た構図だ。登壇者自体、惰性で授業を行う老教師みたいなのが少なくない。理不尽な発言に応答せず、授業妨害も黙殺する。

 今政治に対して多弁な傾向のある若者というのも、教室の原理の中にあるのではないだろうか。つまり、教室の様相を黙殺する側、理不尽な教師を集団で論破せんとする快感に近いのではないだろうか。

 学校の話などしていたら忍たま乱太郎が観たくてたまらなくなってきた。私は高校時代、早く帰宅した日にはおじゃる丸忍たま乱太郎を観ながら夕飯を作っていたのだ。わざわざテーブルの見える位置にまな板を持ってきて、さっさと加熱調理に入ればいいのに意味もなく千切りなどしていたものである。忍たまは声に出したい名前が多いですよね、たきやしゃまるとかひえたはっぽうさいとかあんどうなつのじょうとか、尼子騒兵衛先生の日本語感覚はいいですね。忍術学園の一年ろ組は生徒達がみんな暗くて顔にタテ線入ってるんだけど、先生に至っては名前が斜堂影麿で潔癖性(だっけ?)、笑うと体調崩す徹底ぶり。忍たまで描かれる学校は、クラスの中で集団対個人になることはない。でもそこでも私は居場所ないんだろーな。まーまろはやんごとなきお子様だからしょうがないでおじゃるな。