他人のベッドで目覚める朝

 「まさこちゃん」の家のベッドの脇にかかっていたカレンダーをよく覚えている。それには彼女の勤める会社の名前と、意味もなく美しい風景が載っていた。そしていつも数ヶ月前で止まっており、時折指摘するとまさこちゃんは毎回アラホントウと言ってまとめて何枚もベリベリと剥がすのだ。その剥がし方が雑なので、カレンダーの上の部分には剥がした跡が大きく残っていた。カレンダーは壁に雑に打ち込まれた釘に雑にひっかけられており、見もしないカレンダーを、賃貸物件の壁を傷つけてまで、何のために掛けていたのだろうとずっと思っていた。
 今日のように見知らぬ天上を見上げた朝は、まさこちゃんのことを思い出す。見知らぬ天上には見知らぬLEDライトがついていたが、部屋が明るいのは日当たりが頗る良いからで、そのせいでずいぶん早く目覚めたのだった。この早い時間からこの良好な日当たりということは眺望もいいだろうし、オートロック築浅五階、ここが代々木上原徒歩十五分であることを差し引いても十二万はくだらないなと思ったところでまさこちゃんのことを思い出したのである。まさこちゃんのうちはいくらだったのだろう。いくらの部屋の壁を傷つけて、あの人はカレンダーを掛けていたのだろう。子供のときは家族仕様の物件にしか住んだことがなかったから、彼女の部屋を随分狭く感じていたが、今思えば独身女性が暮らすにはむしろ広かったような気がする。あの部屋は三十平米はあっただろう。この部屋は二十五平米といったところか。そうだ、まさこちゃんは当時まさに年増盛りで、あくびをしただけの涙にさえ子供にもわかるほどの情感が溶け込んでいたのである。だからまさこちゃんが苦手だった。だからまさこちゃんの部屋では所在がなくて、カレンダーだの天上だのそんなものばかり見ていたのである。子供の遊び相手になるには、まさこちゃんには女の匂いが強すぎたのだ。まさこちゃんちで迎える朝は、今朝と少しも変わらない、他人のベッドで目覚める朝だった。
 みんなが彼女をまさこちゃんまさこちゃんと呼んでいた。まさこちゃんはカワイイワネと母もよく言っていた。事実彼女はかわいらしかった。年増女の発している情けが、彼女の価値をある意味では貶め、ある意味では持ち上げていた。そういう女だったのだと思う。いつもどこかもの問いたげな顔をして、みんなよりワンテンポ遅れて笑い声を立てる人だった。ネエまさこちゃんイイワヨネエと言って母はよく彼女をベビーシッターに使った。あなただってまさこちゃんが好きでしょう。まさこちゃんは独身女だけが持つ懸命さで精一杯尽くしてくれた。でもまさこちゃんが苦手だった。まさこちゃんの部屋の、骨組みだけの現代風のベッドが苦手だった。しゃれたキッチンや、酒瓶だの香水瓶だのそこかしこに並ぶ美しい容れものが恐ろしかった。ディオールの特徴的なフォルムの香水瓶があって、そのくびれがまさこちゃんの体を思わせるので嫌いだった。
 隣で眠る人間を起こさぬよう、身体を滑らせて布団から抜け出す。こうして自分だけが起き上がるときを好きになったのはまさこちゃんの部屋でだと思う。まさこちゃんは朝寝坊だった。それは彼女が独身だったからだろう。この世で自分だけが起きているような早朝の一瞬。世界は誰かに認識されなければ存在し得ない。だから自分だけが起きている今、世界の支配者は自分なのだ。早朝の一瞬を、そうやってくどくどしく解釈したのは大人になってからだが、あの時も朝日に照らされるとあどけなく見えたまさこちゃんを自分の支配下にあるように感じていたのだろう。肌理の粗い男の頬にも暁光が注いでいる。いかにも富ヶ谷のマンションといった風情の白っぽいフローリングに足を下ろし、一番そばに散らかっていた靴下を穿く。その後は玄関まで順番通りに衣服が落ちているから、余計な動作なしに外に出られるという寸法である。玄関脇の飾り棚に置いてあったブリーフケースも回収し、昨日の自分をよく思い出して、忘れ物がないかひとしきり考える。指輪はどこに置いてきたのだろう。この部屋に入るときにはもうなかったような気がする。まさこちゃんはなぜか寝る時だけ指輪をした。かまぼこ型の指輪だった。それは、母がいつもしているのと同じ形だった。要するに、父がしているのと同じ指輪だったのだ。考えが込んできて、何とはなしに玄関に腰を下ろす。ワックスの効いたフローリングをジーンズが滑る感触。指輪を失った自分の指の付け根を撫でる。まさこちゃんと寝ると、いつも彼女の左手と手を繋いでいた。指輪の感触を覚えているのだ。
 まさこちゃんをベビーシッターに使って、母が浮気をしていたのを知っている。念入りに身づくろいをして、母はまさこちゃんの家をアポなしで訪ねた。事前に電話などするより、押しかけてしまえばまさこちゃんが断らないことを知っているからだ。この子がまさこちゃんに会いたがるのよ、まさこちゃんカワイイモノネエ。ネェ、と自分以外の二人に同意を押し付けて母はいそいそと出かけていく。それからまさこちゃんは自分の会社に電話をする。父はまさこちゃんの上司だった。たぶんそれで彼らはお互いのスケジュールを把握していたのだろう。まさこちゃんは父と同じ会社に勤めていたのだ。あのカレンダーは、まさこちゃんにとっては自分の会社のものではなく父の会社のものだったのだ。賃貸の壁を傷つけて、父の会社のカレンダーをまさこちゃんは掛けていたのである。まさこちゃんのベッドに父も寝て、まさこちゃんの指輪をした左手を握っていたのだろう。
 彼らの公然の秘密が暴かれることは遂になかった。母は何かを期待して、まさこちゃんの家を告知なく訪れていたのかもしれない。日常を壊すことのできる何か。しかし結局それは起きなかった。幾重にも入り組んだ生活をまさこちゃんの情け深い身体がうまく滑らせて回していた。彼女の身体は実に優渥なるものだった。余すところなく軟らかい肉が被うそれは、すべてを容れられてしまいそうな底なしの穴だった。
 大理石調の三和土に昨晩脱ぎ散らかされた靴を揃える。内羽根式の黒いパンチドキャップトゥ。自分のパンプスを引き寄せて足に嵌める。立ち上がって振り返ると、まだ青みの強い日差しの中で、クロケットジョーンズの持ち主が自分のベッドで泥のように睡っている。ヒールが音を立てないようにそっと足を持ち上げる。
 エレベーターの匂いで二日酔いが込み上がって来、井の頭通りでタクシーを拾おうと決意してマンションを出て行く。夏の朝の、これから気温の上がる気配が襲い掛かってくる。

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