コンクリートジャングル東京のどこに木のまな板は売っているのか

 まあ私も上京3ヶ月とはいえ神奈川出身なので、たいていのことはロフトか東急ハンズニトリに行けば解決することは知っているのだが、しかし、まな板が割れたのだ。

 100円均一で買った(少なくとも自称は)桐のまな板は、割れていなかった時は薄いながらも自分はまな板であるという顔をしていたが割れてしまってはもうそのへんの木片も同じだ。買った当初からカマボコ板と呼んでいたのだが、実際問題カマボコ板に相応しい厚みしかないことがダイレクトに伝わってくる。狭くて軽くて扱いづらいそのまな板がイヤだった私は、ちょいとばかし「ザマァねえや」といったような心持ちだった。まあ結局痛むのは私の懐なのだからザマァねえのは私なんだが。こんどこそマトモなまな板を買わんとして少々遠い大型のスーパーへ向かったのだが木のまな板は売っていなかった。

 まな板を今までどこで買っていただろう。私の地元には県下で一番長いという大げさな商店街があった。そこは商店街としてなんの努力もしておらず、昼日中に行くと耳をつんざくような静寂に支配されているのに店先には鮮魚が並んでいたりして、何か時空のねじれでも起きたのかと思うような様子であった。1、2世紀あとに進化した人類から打ち捨てられて、旧来の生活をおくる一部の取り残された人たちだけが生活する土地としての横浜は多分こんな感じなんだろう。その頃首都では少数の選ばれた新人類が、流線型に白いぴかぴかの壁にかこまれて、その時の価値観では豊かであるとされる、たぶんチューブにいっぱいつながれて脳内でだけ元気みたいな生活をおくっているに違いない。で、私はその旧人民居住指定地区YOKOHAMAで分厚い馴染みの良い木のまな板を購ったのであった。

 思えば時空のひずみから生まれてきたような、ひどく馴染みのよいまな板だった。まな板の上の食材を鍋へ放り込むために持ち上げる時の、あのちょっとだけ持て余す分厚さ。表面が汚くなって大工さんに鉋をかけてもらったことがあった。そのときピカピカになって戻ってきたまな板に、ひどく愛着を覚えたものだ。

 まあ過ぎ去った日々を懐かしんでもしょうがないのでいい加減新しいまな板を買いたい。割れたまま一週間以上が経過し、二枚になった薄いまな板を活用する術のほうが開発されてきてしまったがいい加減限界である。このコンクリートジャングルTOKYOのどこに木のまな板は潜んでいるのだろう。コンクリートジャングルっていうか、なんかペナペナの台所器具ジャングルTOKYOである。ペナペナの薄いまな板売ってるじゃないですか。それなら牛乳パックでよくねえ?っていうやつ。あれ意味わかんない。便利なんだろうけど意味わかんない。あとケーキ型とかおたまとかもうなんでもペナペナ。スチームなんちゃらとかもペナッペナ。私はステンレスと木が好きなのだ。あのペナペナの、火であぶったらたちまち溶けそうな素材は嫌いなの!でもテフロンは好きです!

 

この夏はクーラーを使おうと思う

 私は夏場あまり冷房を使わない。ほとんど扇風機で何とかしてきた。大体夏は暑いし冬は寒いのが当然で、それはそういうものだから別にいいのだ。とは言いながらも私も弱冷房車には乗らないし暑い暑いと文句を言うのだが、少なくとも私の家において扇風機は重要な地位を占めていた。

 ところで最近引っ越して、扇風機を置いてきてしまった。20年近く使っていた扇風機だが、特別愛着があるわけでもないし新しく買うことにした。新しい扇風機はダイエーで3000円だった。私の欲しい大きさの物は二千円台からあったが、少々奮発してリモコンのついたのを買った。その夜、リモコンを紛失した。

 この狭いワンルームの一体どこにものをなくす余地があるのか?私は自分に憤慨した。広くてごった返す地球上にあっても自分の体を紛失することはできない。でも扇風機のリモコンは、こんなに簡単に紛失することができる。なんなんだ。蒸し暑い7月においては自分の体より扇風機のリモコンのほうが大事じゃないか。探しながら、不意に扇風機を振り返った。白い扇風機は黙って私を見ていた。私はもう諦めることにした。いいんだ、扇風機はあるのだから。扇風機のながい首についたリモコンを入れておくところを外し、最初からリモコンなどついていなかったものとして扇風機と暮らし始めた。扇風機はものも言わず羽を回していた。

 翌週、扇風機が壊れた。

 スイッチは点灯するのに羽は回らない。自分のひとつの長所を、なかったことにされた扇風機の無言の抵抗だったかもしれない。そうだ、確かに私が少し高い君を買ったのは、リモコンがあるからだ。でも、違うんだよ、リモコンがなくても君がいればそれでよかったんだよ。そう思いながら(嘘)私はダイエーに電話し、保証が効きそうもないこと、効いたとしても一週間はかかることを確認し、どうせ捨てるのだしと思って分解してみることにした。ある箇所が断線していた。故障箇所はわかったが直す方法はないので、そのまま捨てようと考えた。元に戻す必要もなし、ついでに少しいじって遊んでみた。ハハァこういう仕組みになっているのだなあなどと思って楽しんだ。

 その日父と連絡を取る必要があって、雑談の折りにこの話をした。いやあ先週買った扇風機壊れてさァ。父が急に怒り出した。そんなもの不良品だ、保証が効かないはずがない。自分が修理に持っていく。父は週末に来るという。私は、分解していじっちゃったからもう絶対保証は無理だよとは言い出せなかった。どうせ動きっこない扇風機を相手に、とにかく見た目だけでもまともにしようとドライバー片手に四苦八苦していると、なんだか自分が重なって見えて来るのだ。中身はどうしようもないのに、見た目だけは取り繕って...ああこれは扇風機の恨みだ、自分の力を否定されて、無下に捨てられようとした扇風機が私を呪っているのだ。ドライバーを投げ出し、不貞寝した。起きると暑さで体調が悪くなっていた。

コンタクトレンズが乾いてひっついて取れなくて、悲しいことを思い出そうとする

 映画は消費財だから好きでない。

 私が最新の映画を見ない理由はこの一文で言い尽くすことができる。作品としての質を論じたいのではない。最近の映画はろくでもねえなとかいいたいわけではない。ただそれは、泣く(あるいは感情を動かす)というスポーツとして消費されているように思われるのだ。それの善し悪しを論じたいわけでもない。ただ、そういうもんだなァ、と思うだけの話である。おおげさなモチーフを扱った映画やドラマではなく、たとえば武士の家計簿とか(ごくたまにしか見ない新作映画の宣伝でしか新作映画を知ることがないので例がむっちゃ古い。映画は映画上映前に宣伝されるものだから映画を見ない人は映画を知らないのだ)時代劇でさえ台所事情に踏み入るように、また食事をあつかう作品が増えるように、そのスポーツも動きがより小さくなっているように思う。

 私は映画で泣くことがない。感動しないということではなく、まあ涙腺がかっちかちにかたいのである。だからそのスポーツが、あんまり好きではないのだ。

 

 ここ十年以上、私はほとんど泣くことがなかった。泣くほどのこともなかったのだが。それがここ3ヶ月くらいで2回ほど泣いた。泣き方を思い出したのだろう。泣くかどうかということは、感受性の豊かさや感情の振れ幅ではなく、私が人の顔をした鬼だということなのではなく、涙の出し方を知っているか知らないか、というだけのことだったんだなと思う。それで最近は故意に泣く練習をすることがある。それは本当にスポーツだなと思う。うまく感情をたかぶらせることは、もう技術だ。そのうち映画館で泣くこともできるようになるかもしれないな。

死ぬという動作も、生きているうちのひとつ

 ごく近しい友人が、こんど死ぬことになった。

 その報告を私は明け方に電話で受けた。夜明けの住宅街は薄グレーのぼんやりした光りを投げかけている。始発前に終わったバイトの帰りで、家の近くでタクシーを降りたところだった。声が筒抜けの木造アパートで明け方から電話などできないので、ずるずる関係のない話を引き延ばす友人にあわせ、私は自分の住む古ぼけたアパートのある区画をぐるぐる歩いてまわった。やっと本題に入ったと思ったらまた話を逸らすことが何度も続き、無理に話題を戻そうとしたら、何へのいらだちなのか投げつけるような雑な説明をした。

「おれなんかわるいことしたかなあ?死ななあかんようなことした?まじめにやってきたやん」

 上滑りのする声でそう言って、彼はいそいで電話を切ってしまった。

 何を言ういとまもなく電話を切られて、私はまだしばらくぐるぐる歩き回っていた。朝が本格的にやってきて、気温が上がってくるのを感じた。まじめにやってこなかった私は、何を言ったらいいんだろう。働き盛りの友人はひとを疑うことも知らないような、野球少年の古漬けみたような人なのだ。わるいことなんか、多分本当にしたこともないんだろう。

 昔はもっとずっと、生きていくことはつらかったのだと思う。現世はほんとうに地獄だったのだと思う。だから来世に望みをかけ、仏の救済を頼ったのだ。神様は頭がふるくてまだ現世を苦界だと思っていて、善良な人から殺して救ったつもりでいるのではないだろうか。

 私達は死ということについて何も知ることができない。死ぬという動作もまた、生きているうちの一つに過ぎない。その動作が済むまでは生きる以外の余地はない。だから彼ももう余命五年ギャグ(ぜんぜん笑えません)をかましてくるようになったし、こうやってすべては日常に帰していくのだなァと思う。

 でもまだ、私は、私が死にたいからとかそういうことではなく、それは純粋に気持ちとして、私が代りに死を含む何かを受けてそれで済むならそうしたいと本当にそう思う。どうしていつも、私の経験だけでなく、いつの時代もいたほうがいい人が死ぬんだろう。それはたぶん、「いいやつから死ぬ」という言説をすることができるのは残されて生きていく人だからなんだけど。

 友人から電話をもらった日のような明け方の帰り道のたびに、タクシーを少し早めに降りてそんなことを考える。そうすると部屋の扉を開けてママゴト臭いじぶんの暮らしの痕跡を見るのがたまらなく億劫になって、また自分の古アパートのある区画のまわりをバターにならんばかりにぐるぐる回っては、気温の上がり方に季節の移り気を感じたり、靴擦れを作ったりしている。

ないものねだりの物語...「かぐや姫の物語」「レベッカ」

角川シネマ有楽町 2014.3.13

高畑勲 「かぐや姫の物語

 

午前0時の映画祭 http://0eiga.com/ 2014.3.22

アルフレッド・ヒッチコック 「レベッカ」  

 

 最近、楢山節考を再読した。

 楢山節考は姥捨て山の話だ。しきたりに従って真冬の楢山に捨てられることになる老いた母親のおりんは、自らの健康を拒み、年寄りらしい姿で捨てられることを望んでいる。正しく捨てられることは、彼女にとっては不幸ではなく、誇るべき、この上ない自己実現なのだ。  何が幸せかは人それぞれだ。おりんの前で姥捨てを否定してはいけないと思う。おりんにとって、長寿や健康は幸せではなく、それはプライドを傷付けることなのだ。そういうふうに育ってきたのだから。私たちがおりんに対して考える不幸、残酷も、私たちがそういうふうに育ってきたからということ以外に根拠はない。

 そして、かぐや姫の物語も、里山的な生活が自然で人間らしくてイイですよね、という単純な話ではない、というか、そうでないといいな、と思う。

 姫の教育係である相模は姫の考える幸福を否定する、頑迷な人物のようにも見える。でも相模にとっては、やっぱり高貴の姫君らしくして、顔もわからなくてもお金持ちの貴族にもらわれることが幸せだし、たぶんそういう姫君を育て上げることが相模にとっての幸せで自己実現なのだ。だから、姫君に与えたかった幸せを姫君が否定したときに、相模は去ってしまう。それを否定することはできない。

 で、誰が一番幸せそうかっていうと、翁と媼なんだよね。翁の空回りに、媼は自分のペースを乱さずに従っていく、理想的な夫婦だ。実はパートナー選びが重要なんだってことなのではないだろうか。 捨丸は、姫がよしとする自分の里山の暮らしを否定し、都でゆたかな暮らしをする姫が幸せだと思っている。そして、パートナーや子供を捨てて、姫との暮らしに逃げようとする。みんなみんな、いまの暮らしがイヤなのだ。でも翁と媼だけは、山でも都でも変わらない。

 古文の世界の人は、愛や恋を「情け」と表現する。姫が口にする「情け」は感情というニュアンスだろう。それは、なにかをほしがる欲情なのだ。

 姫に月で地球のことを教えたという人物が出てくる。羽衣伝説の天女だ。羽衣伝説は手塚治虫も『火の鳥』の中で未来人として描いている。天女が水浴びしてて、岸の松にひっかけてあった羽衣を男がとってしまう。んでそれを返してあげないでそのまま嫁さんにしちゃうの。羽衣伝説はいっぱい類話があるのでものによるんだけど、大体の話では子供までもうけたのに男が必死で隠す羽衣を見つけ出して月の世界に帰っちゃう。でも『かぐや姫の物語』の天女は男を、地球を恋しがる。それって、情けなんだ。好きとか嫌いとかを超えて、馴れた体に対する情けだ。

 そして、姫のパートナーはどうやら仏様のようだ。

 月世界は仏教的である。仏教のしあわせは(しあわせとは呼ばないが)、感情を捨てちゃうことにある。そもそも、現世っていうのは、いまの私たちには想像できないくらいつらい物だったんだろう。だから仏教では欲を持つことが罪とされた。

 愛や恋ではなく、「情け」という言葉であることに、この映画のミソは詰まっているのだろう。

 

 いっぽう「レベッカ」に登場する「ないもの」は、いたいけで不幸な女の一瞬と、もうこの世にいないレベッカだ。

 レベッカは基本的にひねりのきいたシンデレラストーリーである。超お金持ちのマキシムに、ちょいと不幸な境遇にある「わたし」が旅先で出会い、電撃婚。んで、マキシムの屋敷に行くんだけど、そこでいろいろいじめられてしまう。その原因が、マキシムの死んだ前妻「レベッカ」とレベッカを慕う使用人のダンヴァース夫人、そして、マキシムの自分がレベッカを死なせたという思い込みだ。

 旅先のホテルでのプロポーズのあと、朝食の席に着いたマキシムは「わたし」に「そのままの君でいい」と告げ、砂糖の数を教える。簡素で電撃的なプロポーズ、道端での花束のプレゼント。ロマンチックで少女マンガ的な展開だが、マキシムは「喧嘩したらこの日のことを思い出そう」とプロポーズの際に述べ、「そのままでいい」と繰り返す。シンデレラを迎えに着てあげたこの日を思い出そう。彼が欲しかったのは、後添えに相応しい、控えめで不幸な、自分をありがたがってくれる若い女だったのかもしれない。

 圧倒的な悪役ダンヴァ—スのいびりに鍛え上げられる中で、レベッカの亡霊を振り払い問題解決能力と少々の貫禄のついた「わたし」に、マキシムは「今の君には私の好きだったあのあどけなさがない」と言う。

 私はヒッチコックが好きだが、一番最初に見たレベッカが一番好きだ。うつくしいモノクロの絵、非現実的なセット、圧倒的な存在感を放つダンヴァ—ス夫人、そしてヒッチコックのヒロインたるに相応しい、困らせられっぷりが見応えたっぷりのいたいけなヒロイン。

 この映画を見たのは銀座のみゆき座だった。午前10時の映画祭というTOHOシネマズの企画で、週替わりで名画がかかっていたのだ。特別な約束もせず、大学のかわいい友人と銀座をあるいて、映画を見、ちょいとばかし飲んで帰路につく。大学生らしい時間の使い方だったと思う。わたしがねだっているないものは、そういう時間だ。  

 もうないものであるレベッカに振り回されて、ふたりは変わってしまった。その呪縛から解かれて、マキシムがこれ以上いたいけな「わたし」に期待せず、うまくやっていってほしいなァと、本当にそう思う。

コーヒーなんて飲めなくていい

 おっさんのドブみたいな口臭ってコーヒーとタバコでしょ。だから、コーヒーなんて飲めなくていい。コーヒーなんてドブだ。ドトールの泥水をすするのだ。みんな味なんかわかんないで飲んでるに決まってるし、コーヒーのよさっていうのは、「ドブってはまってみると意外にあったかいなァ」くらいのもんなんだから、いいんだ、コーヒーなんて飲めなくて。絶対紅茶のほうがうまい。すてきな喫茶店はたいてい他の飲み物もうまいのだし、喫茶店にはいって、自分はブレンドとタバコで、連れの女の子がぶどうジュースなんか頼もうもんならもううれしっくって目尻が地面につかんばかりに下がっちゃうよ。だから、コーヒーなんて飲めなくていい。
 だいたい、なんでそうコーヒーばかりを羨むのだろう。米の味のちがいがわからない人や魚の種類がわからない人だって、同じくらいか、もしかしたらもっとずっと損をしているのに。
 
 まあコーヒーの味は、わかるんですけれども、うまいコーヒーはあるけれど、やっぱり夏の日の麦茶のほうがうまいのだ。こたつで番茶にはかなわないのだ。亜熱帯で喫まれるマテ茶みたいなふしぎな魅力や祝祭性は、夏の日の麦茶や、連れの女の子が頼む紅茶のほうに、絶対ある。
 
 なにより、コーヒーが飲めないことを残念がっているあなたがかわいいから、だから、コーヒーなんて飲めなくていい。

突然大島渚祭 1.戦場のメリークリスマス

 ひかりTVどこでもという、お金払うといっぱいてれびがiPhoneで見られるサービスに内村さまぁ〜ずを見る為だけに登録してます。映画もいっぱいあることには薄々勘付いていたのですが映画は映画館!と思い込んでいるので見たことがなかったのです。でもお金もないし積極的に利用していこうという目論見です。このサービスには高いコースと安いコースがあって、安いコースでも見られる映画に大島渚がいっぱいあったので大島渚を祭ります。
 高いコースのお金を払うと私の大好きな「宇宙人東京に現る」という映画が見られるので迷ってます。でも月額千円…でも見たい…みんなにパイラ人の勇姿見せびらかしたい…と悩んでは「そもそも見せびらかす友だちが居ないぞ」と自分にいいきかせています。泣きたいです。どうかともだちになってください。

 ということで一番有名っぽい戦場のメリークリスマスをみました。

・ロレンスのめがすんごいまん丸!!死刑告げられるときがやばい!まんまる!!
・ボウイはイケメンですね
・途中、もうクライマックスだと思ったらまだ46分もあってびっくりした
ビートたけし坂本龍一のそれぞれの棒読みっぷりがみごとにはまってる、じゃりン子チエのテツ役(西川のりお)と一緒だな〜(さいきんじゃりン子チエばかりみているのだ これもひかりTV
・そういうときに「監督の映画」は強いな
・人物の緩急、コントラスト
ビートたけしの持っていきっぷり
・「ロレンス!」
・日本人の英語は好きだな
 
 全員この土地の人間ではなくて、異国の地で異国の様式で暮らそうとして異国同士でぶつかってるということ。
 観終わってから、今回の東京の大雪が78年ぶり、ということは二・二六事件ぶり?というツイートをみかけて、あ、と思いました。
 ヨノイは二・二六で死に損なって、異国で異国人として異国人を生かそうとしたり殺そうとしたりして異国に死ぬんだね。

 あ、あと御苗場というイベントに写真を出展します。あとでここでも告知しよう。しつこい?