この世のどこかにあの子よりも私に似合う服があるのかな

 Kitsuneというブランドの、それはそれはすばらしいニットがずっと欲しかった。
 欲しくって欲しくって、伊勢丹へ行って眺めてはため息をついていた。しばらく置いてあったけれどもそのうちなくなってしまった。欲しかったなァ、欲しかったなァとずいぶんクヨクヨしていたが、そもそも買える値段でもなかったし、冬のセールに浮かれたりして印象は薄れた。でもそういう、欲しかったのに買わなかった服っていつまでもふと思い出すもので、ああ買ってしまえばよかったのに、とちょいちょい考えていたのだった。
 そのニットが最近夢に出た。
 それはレディースのニットで、でもあまり女性的なところのないVネックのシンプルな形をしていた。後輩の男の子がそれを着ていて、ためいきの出るほど似合っていた。夢の中で、私はためいきをついたのだった。ああ、そうだよねェ、と思ったのだ。
 それからそのニットのことを考えない。私のKitsune欲しさは成仏してしまったのだろう。成仏するというのは、自分のことを思い出すということだと思う。
 
 私はポートレートを撮っている。大抵の場合、相手は(私が思うに)きれいな女の人だ。で、服を貸したりする。別にそんなにコンセプチュアルな格好をさせるわけではないので、私の普段着なのだけど、もう絶対、私より似合っているのだ。似合うと思って着せてんだから当たり前なんだけど、私だって似合うかしらんと思って買ったのに。ああ服にカワイソウなことをしているなァ。味噌汁が上澄みと味噌の濁りにわかれていくように、ユラユラとそんな気持ちが沈殿していく。

じゃりン子チエと「明日、ママがいない」

 「明日、ママがいない」というドラマにおいて、主人公が赤ちゃんポスト出身であることを意味する「ポスト」というあだ名にいちゃもんがついて話題になった。(観ていないので合ってるかどうかわかりませんが)これは主人公自身が自嘲をこめて自称したあだ名であって、ポスト自体を揶揄するものではないし、第一、たとえ赤ちゃんポストが社会的に必要なものであったとしても、そこに投函された子供が「ポスト」であることには何ら変わりはない(実在する同様の機関がどんなに手厚く保護したとしても)。でも、そうしたことから逃げるしかないのが今の世の中なのだろう。

 じゃりン子チエというアニメがあった。このアニメは「三丁目の夕日」と同時代に、三丁目の夕日と同じく下町人情モノとして受容された作品である。複数回のアニメ化、二足歩行の猫などの商品展開しやすいキャラクターの存在は、三丁目の夕日よりも人気を博したことを想像させる。しかし今、三丁目の夕日が再度脚光を浴びる一方てチエちゃんを思い出す向きはない。平成生まれにとってはほとんど知られていない作品でさえある。
 下町人情モノとはいっても、チエちゃんのそもそもの舞台は釜ヶ崎やあいりん地区、一般的な下町とはとうてい呼べない地域であった。チエちゃんの父親テツは何かというと暴力に訴える博打狂いで働かないし、母親はそんな父親に抵抗できずに家出している。チエちゃんは博徒の父親に代わり、自ら飲み屋を切り盛りして家を経済的に支える。母親たちを「女ども」という仮想敵に見立ててチエちゃんと自分の共依存の関係に持ち込もうとするテツの姿は家庭崩壊の典型的な姿でさえあるのだ。しかしチエちゃんは、子供の世界を逸脱してやくざたちと付き合いながら、時に自らを客観視し、大人よりも大人らしく彼らを宥めている。チエちゃんは家庭を逸脱することで自立した広い視野を得ているのである。
 釜ヶ崎出身の著者が懐かしんだ釜ヶ崎は、実際に皿洗いで生活を立てる小学生もいれば両親がいない子供もザラで、子供の世界、大人の世界、家庭の枠組みから逸脱した一個の共同体だった。そうした夢の世界(筆者は通天閣を描かず、意図的に作品の舞台を暈している)、懐かしい釜ヶ崎パラレルワールドにチエちゃんたちは生きているのだ。
 三丁目の夕日で描かれた「昭和」も、現実よりもずっと昭和らしい昭和であり、それはチエちゃんの釜ヶ崎と同じくパラレルであるかもしれない。でもそれは過去であり、二度と戻らない、懐かしんでさえいればいい世界だ。しかし、チエちゃんが生きる状況は、確実に虐待であり、崩壊なのである。チエちゃんが好まれた時代、日本において児童虐待は発見されていなかった(もちろん起きていたのだが)。児童虐待が顕在化した今となっては、チエちゃんの世界は懐かしい昭和である以上に失われた地域のセーフティネットで家庭崩壊が包容される世界であり、今解決しなければならない問題を孕んだ世界なのだ。
 だから今、チエちゃんの世界は見るに耐えないのかもしれない。明日、ママがいないにおける「ポスト」と同様、「ウチは日本一不幸な少女や」と自らをデフォルメしてみせるチエちゃんの強さに、私たちは今向き合えないのだ。

菅原孝標女のヤバさ

今週のお題「日記・手帳」

 高校時代、更級日記が好きだった。好きだったというより、あれは同族嫌悪の怖い物見たさだったのだろう。
 要するに更級日記というのは、本に人生をめちゃめちゃにされた女の自伝である。私みたいじゃないか。
 要しすぎたのでもうすこし砕く。筆者にして主人公(日記だからね)の菅原孝標女は少女時代に源氏物語に出会う。当時の源氏物語と言えばもう流行の最先端、最新鋭の娯楽だ。流行ってるテレビドラマとかそんなレベルの話ではない。「物語」というものが生まれたてほやほやの時代なのだから。そんで物語の中に憧れすぎちゃって、現実が見えなくなっちゃって「いつか光る君が…!」って感じで青年期を過ごし、気付けば適齢期を過ぎて「よく考えたらうち大した家柄じゃないし私ブスじゃん」と来たもんだ。それから仏教に頼ってみるんだけど、まーちょっと今更よねって感じで残りの人生はてきとーにやりすごします、来世に期待!っていう話。やっぱり私みたい。この他力本願と、それさえ思い込めもしないこの感じ。
 更級日記は「あつま路の道のはてよりも、なお奥つ方に生い出でたる人」で始まる。田舎もんがどうしたんだろうね、という自虐なのだ。
 これといってドラマチックな展開もなく、恋をすることもなく過ぎていく筆者の人生の中で、一瞬だけ色がともる場面がある。宮仕えする中でイケメン貴族とちょっとした色恋沙汰があるのだ。でもその時の菅原孝標女は、何もせずに身を引いてしまう。あんなに憧れていた物語的な出来事なのに。なにしろ、自分は適齢期を過ぎた受産階級の(要するに中流だ)女に過ぎない。仕方ないのだ。きっと彼女はこの思い出をいつまでも胸にしまいこんでいたことだろう。
 どうしようもない、つらいだけで物語にはならない不幸が続いたりして筆者は現世をあきらめ、終わりらしい終わりもなくこの日記は終わっていく。

 でも、自分の人生をうっちゃってから書かれているはずの源氏物語の思い出はやっぱりきらきらしている。だって、十三の女の子が「物語っつうやつが見てみたいんだよお〜」っつって仏像まで作ってお参りするんだよ。かわいいじゃん。

 そうまでして望んだ源氏物語をまとめて入手する場面がある。

源氏の五十余巻、櫃に入りながら、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。
 
 はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。昼は日暮らし、夜は目の覚めたる限り、灯を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶ

 誰にも邪魔されずに寝っころがってまとめ読みする源氏物語はもう最高で、后の位だってどーでもいいって感じなのだ。でもこういう思い出を、菅原孝標女はこうやってしめくくってしまう。

夢に、いと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て、「法華経五の巻を、とく習へ」と言ふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず。物語のことをのみ心にしめて、われはこのごろわろきぞかし、盛りにならば、かたちも限りなくよく、髪もいみじく長くなりなむ、光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなく、あさまし。

 夢にお坊さんが出てきて法華経でも勉強しろって言ってくれたのに無視したといって後悔している。そして、「今はかわいくないけど女盛りになれば夕顔や浮舟(どっちも源氏物語の登場人物の美女)みたいになるのよ!って思ってたの超恥ずかしい!!ぎゃー!ばたばたばた!」って感じだ。みなさん身に覚えがあると思います。

 菅原孝標女がヤバいのは、結構な年齢になってもそういう風に過去を振り返っていて、子供時代の思い出として処理できていないことだということに最近気付いた。それだけ自分の今を認められていないのだ。
 彼女が物語を好きだった事、これだけは本当のことだった。それはこの日記を読めばわかってしまう。
 そういうことを、認めて生きていかなきゃいけないな、と思うのだ。

 (飽きたのでまとめが雑になりました)

金星の風

 雲のない淡色の落ち日が冬の訪れを叫んでいるようで11月も終わった。あまりに単純な空模様が異星の夕暮れのようだと思う。塗りつぶしの空、大きく霞む月、赤く硬質な大地に吹きすさぶ風。異星をあらわすにはこれくらい記号を並べれば十分だ。私たちは藤子不二雄に、手塚治虫に育てられたのだから。
 金星にも風が吹いている。
 親父は64になった。もうすぐ年金だ。家を燃やさんとばかりに侵入してくる冬の西日に曝された彼はおじいちゃん然としていて私は日曜日が嫌いだ。耳うとき父入道よほととぎす。
 金星にも風が吹いている。
 多摩川に夕暮れが映り込む。紫から青へ移り淡い朱色をなびかせる空がお前も死ねと訴えかけてくる。パラフィン紙越しに見る古書店の本の背表紙のような顔のない空。季節が移り変わるということは誰かが死んでいくこと。暖かい空気の停滞する電車の車両の中で外の空気を想像すること。考えても無駄だ、コートを脱げ、その肢体の曲線を曝せ、ランドセルって背中が蒸れるんだよねえ。妹を連れた小学生が赤いランドセルを腹の側に掛けて抱えている、そういう日常。停滞していると思い込んでいるのは私だけだ。風、風が吹いているのだ。金星にも。
 どこの星にも風が吹いているわけではないし、月が大きいとは限らないし、地面があるともわからない。でも金星には風が吹いている。金星の風はなぜ吹いているのか、わからないそうだ。でもいいの、私には地球の風がどうして吹いているのかもわからない。停滞する暖房の空気が想定されたエーテルのように何んでもない顔をしてすべてを侵していく。
 金星にも風が吹いている。
 

タルコフスキー「惑星ソラリス」

下高井戸シネマ 13.10.8
タルコフスキー惑星ソラリス

 いやー、映画みたわー!!って感じの充実感が残る映画だった。
 私は「いい映画」という言葉が好きでないのですが、そういう意味では「いい映画」ではないと思う。
 発音ソリャーrリスなんだな〜。(rは巻き舌)

 何を感想として書いていいのか難しいんだがまず映像美。きれい!最近2001年宇宙の旅も見たんだが、タルコフスキーの言う通り、あっちはセット作りにばかり酔っちゃった感じで、きれいと言えばものすごくきれいなんだが現実感に欠ける。こっちのステーションはざらざらした現実味があった。単色とカラーの切り替えもいいし、東京を使ったシーンなんかも印象的。ピントが微妙なのはわざとなんだろうか、カメラが延々動いてる感じが特徴的。あと、引きの絵がなくて一人ずつを映してばかりいるのは、絵的にも目を引くけど意味があるんだろうなあ。そしてなにしろハリーが美人すぎ。
 
 私はGoogleearthなんかをみててもすんごい怖くなってくるんだが、宇宙に対峙する怖さを感じた。これは2001年宇宙の旅には(こっちのほうが不気味なオブジェクトを配置してるんだけど)感じなかった。何がほんとかわからないし、今私が生きてるのもほんとかわからない。ソラリスの島のひとつで起きてることかもしれない。私の感情を映画と同調させようとするなら、そういう怖さがハリーの畏怖に表出しているように思った。
 それぞれにみんなとてもいいキャラクター。サルトリウス好きだな。
 SFそのものを目的にしている2001年宇宙の旅よりも、SFを手段にしているだけの(非日常を起こして道徳を問おうとしているだけの)こっちのほうがSFとしての道具立てが面白かったなあ、まあそれは原作者の功労かもしれないが。
 恥っていう言葉をロシア語でなんて言ってるのか聞き取れなかったのが残念。

 後輩の女の子と観に行ったのですが、帰りに徒歩圏内にある彼女のバイト先のパン屋さんに寄りました。理想のパン屋みたいないい人そうなご主人に食パンと「小さいとき下高井戸シネマドラえもんの映画を見た」話までいただいて帰った。これから横浜まで帰ると言ったらものすごく驚かれた。後輩はロシア文学とか読むようなタイプでもない法学部の女の子なのでなっげえソ連の映画なんかつまらないかなと思ったがわりと喜んでくれた。いい日だった。

リュック・ムレ「食事の起源」

アップリンクF 13.10.6
リュック・ムレ「食事の起源」

食の流通、そこでの搾取の構造をひたすら追うみたいな感じ、フランスの話なのでそこに人種差別とか植民地の問題がからんでくる。
対象との距離感が自然でよかったし、単純に(工場見学的な意味で)映像が面白かった。マグロの解体シーンとか。最初から「こういう動機で映画会社にお金をもらってこの映画を作ります」という始まり方で終始そういうトーンなので、さいごに自分の問題に持ってくるのも自然な流れですっと受け入れられた。
リュックムレがどういう人なのかがよくわかる映画だったと思う。
バナナ作ってる旧植民地の人たちが、お金足りなくないかって言われると「これでなんとかするさ」って言うのが印象的だった、ポジティブにも見えるし、すんごいネガティブでもある。
労働喜劇もみたいなあ。

アップリンクにスケートボーダーがいっぱいいてびびりました。

夏の終わり 不倫 でググってきた人、先生怒らないから名乗り出なさい

 いいじゃん。しなよ、不倫。夏、終わるもの。
 
 夏が終わる。そしてみんなみんな私を置いてどこかへ行ってしまう。
 持ってないから欲しいに決まってるのに、人間持ってたことのあるものしか作れないみたいです。イヤな世の中ですね。

 悪人正機っていうのが日本史の教科書に載っていました。悪人のほうがマイナスからスタートしてる分功徳を積む機会が多いから極楽行くチャンスあるっていう話。嫌いだった。元ヤンキーの先生がやたらありがたがられるようなもんじゃん。ふつうにきちんとやってきた人のほうがえらいに決まってんじゃん。
 ふつうにきちんとやってきた人のがえらいに決まってるから、だから悪人正機が必要なんだってことが最近はよくわかります。

 だから、しようよ、不倫。いいじゃない。みんな死ぬ時はひとりぼっちだもの。今あなたを誰が愛してくれなくても関係ないよ。