ねむりのこと

 夢の中で、これは夢だと疑っていることのあわれさ。苦しさ。

 夢の話はつまらないというが私は夢の話が好きだ。本人だけがつらくて面白くて話しているその気持ちがうつくしいと思う。子守唄に「起きて泣く子のつらにくさ」という言葉があって、これは母親ではなく子守りをしている奉公人(本人も子供なのである)がうたう歌だが、私はなんとなくその言葉を思い出すのだ。他人の子供が起きて泣くと、その他人に自分は打擲される、ここにいるのは他人の家族達だ。自分のあわれさ憎さは誰にも知られることがないのである。

 待ち人がくる夢を見たことがある。寝ている枕元で腕時計の音がする。私は腕時計をする習慣がないから、誰れかが来たのだと知れたのである。体が動かないから夢だろうと夢の中で思った。そしてそれは本当に夢だったのだ。夢の中で、望むことが起きたのに、夢だと疑っていることは苦しかった。起きてからのほうがむしろ、夢ではなかったのではないかと思われた。ねむりを疑うことの苦しさは、自分を疑うことの苦しさだ。それは誰にも知られることがない。

 

 私の大好きなチェーホフの短編に「ねむい」というのがある。

アントン・チェーホフ Anton Chekhov 神西清訳 ねむい СПАТЬ ХОЧЕТСЯ

 簡潔をよしとしたチェーホフの筆が冴え渡る名作だ。

赤んぼを殺して、それからねむるんだ、ねむるんだ、ねむるんだ。……

  

 睡眠はなによりも自分ひとりの範疇でしかないことだと思う。

 引用した子守唄は、いわゆる五木の子守唄だ。「私が死んだからって誰が泣いてくれるだろうか、裏の松山で蝉は鳴いているが。」十代そこそこの少女たちにこう歌わせたのは、他人の家庭の冷たさである。

 私たちは他人の家庭の連なりのなかに生きている。だれも、あなたのあわれさ憎さを知る人はいない。